従妹の結婚式 [日記]
昨日は朝から舞子ビラに出かけた。親戚の結婚式にでるのは久しぶりだったが、従妹の結婚式だった。母の兄弟姉妹は8人いたので、いちばん下の叔母とは年齢差があるのだ。
従妹とは2年前の叔父のお葬式以来だった。この日は親族だけの披露宴だったので、わりとのんびりしていて、和やかな雰囲気だった。
この日は車でなくて電車にした。お祝いごとでお酒が飲めないのはつらい?からだ。先日までの天候が嘘のように晴れてきてよかった。
最近はクロも部屋に離しているが(なんでも拾い食いするのだが)老いても幼い表情だ。
少し早めに着いたが、控室で待つ。淡路鳴門大橋が見える。花嫁をみやる心配そうな叔母の小言のようなつぶやきが面白かった。私の親族の系統はぶっきらぼうで愛想がない。怒っているのかと思うとそうでなくて、照れくさいのと不器用なのである・・
新郎の親戚の方も挨拶に来てもらって、厳かな雰囲気を感じ始める‥
この日は大安で結婚式も多かった。外に出て記念撮影だ。ばらばらの人を細かく指示して、高いところに上って上からの写真を撮る。バンザイや拍手するシーンもあった。風光明媚な場所でのいい風景だった。
披露宴も親族だけの気さくな内容で、新郎新婦の人柄をしのばせるのがよかった。ひとりひとりの短いコメントもテンポがよかった。私もだらだら長くならないように‥心がける。妻も息子もうまくこなしてほっとする。
それからはゆっくり食事できる!私の場合は祝賀会でもゆっくり食事をしたことがない。何かと気になって落ち着くことがないのだ。
昔は家で結婚式をしていたので、親戚が集まって宴会だった。その名残のある結婚式だったのが懐かしい雰囲気だった。
お幸せに・・
ほろ酔い気分で電車の中で居眠りしながら帰った。
金太郎は近寄っても初めは黙っているが、次第に「オハヨウ」と伸びをして寄ってくる。やはり留守をするとさみしいのである。「金太郎、今日はいい結婚式だったよ。金太郎の名前も出たよ・・」金太郎は名が知れているのである?
有段者研究会 [日記]
昨日の晩に日記を書いたのだが、間違えて消してしまった。今までにも何度もあったが、そのつどコピーしておかなければと思うのだが、忘れてしまう。
昨日は(3月19日月曜)有段者研究会の日だった。8名出席でいつもよりも多かったが、奨励会も三段リーグが終わると、感慨がある。みんなそれぞれの思いを持って次回のリーグ戦に挑むことだろう。半年かけて戦うので、心技体ともにバランスを保っていくたくましさと日頃の精進がすべてのように思う。
また奮起してほしいと思う。
弟子の奨励会も今はほとんど上の方ばかりになっている。ここ数年は一門の新入会も少なくて苦戦続きである。それでも毎回「何人の奨励会員がいますか?」と聞かれるといつも即答できない。ひとりひとりの顔を思い出しながら数える。
以前はタテの関係がもっと深かったのだが、今はそういう機会が少ないのと、そういう時代のせいもあるかもしれない。後輩を叱るシーンも減ったが、昔ほど先輩を敬うシーンも減っているかもしれない。お互いにある意味で余裕がない‥
今のは一般的な話だが、一門の弟子たちはまだそういう傾向が少ないと信じておこう?
叱るのはエネルギーが必要で、また目をかけていないとできないことで、今はそういう意味でも、自分自身にとって、何らかの意思を持っていないと、生きていく色が薄くなってしまうと思う。逆に言うと色を濃くすると、しがらみや神経を消耗することもあるので、自然に気を使わなくていい相手同士で仲間を作る傾向にあるように思う。
師匠からみて弟子にとってあやういのは、惰性とマンネリと過信と不信?で、なくしてほしくないのは一念と反骨心である。
摩擦を避けることと、ややこしい部分の接触を避ける、いい意味でも悪い意味でもこれがひとつの風潮と思えるが、大切なのは社会性だろうか。自分自身は常に不安を抱えているが(社会性の欠如)だから弟子にえらそうなことは言えない。私は弟子にこうあってほしいというのは薄くて、ひとりひとりが自分なりに生きて行けばそれでいいのだと思っているが、①将棋はすべて仕事で、仕事をきちんとこなす②日々規則正しい地道な時間を持つ③毎日ひとりで考える時間を持つ、これがいいように思う。
私はどちらかいうと人付き合いが面倒で、子どもの頃の通知表には「仲良くしないと、楽しい学生生活が送れませんよ」「協調性がないので、団体生活になじむようにしましょう」就職して寮に入った時も先輩に「お前は身勝手だから、みんなに好かれないと幸せになれないぞ」と諭された。でも自分には無理と意思っていた‥
とにかくみんの邪魔をしない、目立たないようにわがままになる、そういうワル知恵を使った?人に好かれようと努力したこともあったが、私には無理である‥
裏の裏は表、案外欠点が長所になったり、逆に長所が弱点になる・・物の見方は視点を変えると違って見えることもある・・先入観やきめつけはよくない‥
昨日書いたのとまったく違う日記になってしまった。自分の思いを書いたときは、いつもはその部分をやっぱりやめとこうおかと全部書き直すこともある。理屈っぽいのは面白くないが、きれいごともつまらない‥うまく言えないが生身で生きている感性がいいなあと思う。
日曜コース、受験者特訓3,18 [日記]
昨日は(3月18日日曜日)午前中、子ども日曜コースAだった。いよいよ3月の期末の時期だったので、教室に通うのが最後の子どももいた・・子ども達はあわただしい雰囲気もあったが、いろんな意味で進級の春である。
金太郎は子ども教室でいつもよりもなんだかはしゃいでいるようだ‥騒がしい子どもに「コラコラ」とタイミングよく叱るのが面白い?「金太郎に叱られたなあ」
指導は西田三段で私が補佐で、阪上二段が手合いだった。少し全体の将棋を見て回った。将棋はバランスが大事で、負けるのは悪手が原因のことが多い。その場での最善手、いわゆる自然に前に駒を進めるのが意外に難しい‥
局面によって一手の重みが変わるのが、難しい理由かもしれない。
いい面を持っていても、些細なことで吹っ飛んでしまう面があるのが、将棋の怖さだ。粘着質が大事な気がする。
初級の子ども達は、自分の手を読むのが先行して、相手の手を読むのがなかなか難しい。その原因は指し手の目的が曖昧?なことが原因のようだ。たとえば攻めるということでも、具体的にはどういうことかわかりにくい。感覚でつかめるのが早い子も入れば、なかなか踏み込めない子もいる。それを見極めるのが指導では大切かもしれない。
まずまず互角の形勢、駒の活用を図る面では合格だ。
四枚落ちで、ここで下手が8七銀成りと踏み込むのは難しい。覚えるしかないようだ。8五銀と逃げてしまうか、9九歩成や9七銀成と指すのが多い。
午後からは日曜コースBだった。隣で受験者特訓もある。大人用の大きな将棋盤を使わないと足りなくなっている・・このコースも不安定だったが、足並みがそろってきたので楽しみだ。レベルが上がってきたので鍛えがいもある。
子ども教室なので見れなかったが、阪神競馬の「阪神大賞典」で三冠馬のオルフェーブルが負けたようだ。途中でかかってしまい信じられないレースだったらしい。それでも二着に食い込むのがすごい馬だ。
ある意味では危険をはらんでいる人間味がある?馬だ。波乱の内容だったみたいだ。私は馬券は外れたが、中山の「スプリングステークス」の3連複は取った。ここ2回は負けていたが、挽回した。園田競馬は惨敗中だが?JRAはトータルで少し勝っている。
金太郎は教室でおしゃべりが多かった。
まとわりついてくる。パソコンを見ていると邪魔をしにくる。メガネを素早く外されてしまう。
私が3二角までの局面で、同金、同桂成で詰むや詰まざるの局面だ。実戦は4七角、3五玉以下詰まなかったが、5八角で詰んでいそうだ?
週末が終わって一段落だ。最近は自分の目の前のことしか見えない?ので、あれこれとおろそかになっていることも多い。常にあきらめの境地の中で、目の前に関わっていることに全力を尽くす‥そう心がけている。変化に動じない‥将棋でもそれが言えるようだ。
居直り、開きなおり、未練を捨てる、我慢する、しぶとく食いつく、あきらめない、倒れない、言い訳しない、そういう言葉が交錯するが、自分自身は次第に倒れていく方向にあるのだろう?それでも少なくとも、そういう精神を持っていよう。
土曜コース、土曜教室 3,17 [日記]
昨日は(3月17日土曜)午前中、子ども土曜コースだった。出足が遅かったのだが、結局将棋盤を増やした。3月の2回目なので今日で子ども教室に通うのも最後の子もいたが、騒がしさに追われて感傷的にならない?
将棋を通じて得るものがあればと思う。私自身は将棋を教えながら子ども達のエネルギーをもてあましつつ、何とかやりくりしている感じだろうか。仲間といるとお互いに影響されて危ういが、一人一人と向き合うと確実なひたむきさが伝わってくる‥
今の子ども達は自分の弱さを見られるのを苦手としているように思えるが、そこにたくましさを身につけて、吹っ飛ばしてほしいものだ。私は弟子も含めてだが、長所を生かすとか欠点をなくすとかの思考でなくて、因果関係というか、これは何が原因なのだろう・・そこに興味を抱く習性がある。
午後からは土曜教室だったが、受験シーズンも終わったのもあり、いつもよりも多かった。レベルアップしてきて、よそ見ができない将棋ばかりになってきているので、エネルギーを消耗する。
将棋にはヤマ場があって、勝負どころの場面だが、それがどこにあるのかで棋力差がでてくる気がする。はっきりと見えない部分が案外大きい場合と(駒がぶつからない局面)中盤から終盤の難解な局面がテーマになる場合とがある・・大局観の最善手と部分的な最善手の差だろうか。
要するに負けたときに真の敗因は何か?なのである。
教室が終わって、喫茶店行きも済ませて、夕食は魚のしゃぶしゃぶだったがおいしかった。
金太郎は教室の間もなんのかんのおしゃべりが多くて、ややもてあまし状態だった。こういうときは妙な言葉をしゃべらないかと心配になる。「メシメシ!ピーナツ、ピーナツ、ダメヨ」
ご機嫌な金太郎、まとわりつく感じで寄ってくる。
やんちゃな4,5歳の男の子を相手にしている感じだろうか。収まらない面と締めないといけない面がある。それでもこの世の中で私がいちばんの相手だから、金太郎はかすがいである?
夜はマグドに行って一息ついた。明日の競馬の予想をする。先日、楽天銀行のカードが来たので、これから競馬以外の分野も増やせる・・楽しみである。さっそく競輪のページを開くのだった。また遊びの趣味が増えそうだ・・その分、仕事も身が入る・・それが理想だ。
年齢とともに、わがままさに磨きがかかるのだ。知らない間にそうなってきている。
詰小棋会3,16金曜日 [日記]
昨日は(3月16日金曜)午前中、子ども教室のテキストを作成する。それからコンビニにコピーをしに行く。割と枚数が多いので時間がかかる。
これは鈴のついたハンガーである。
こうやって足でも遊ぶ。
ブログを入れたパソコン・・金太郎は自分の姿をわかっていない?人間と思っている節がある。幼い時に餌付けしているとそうなるらしい。
この鐘で遊んだり、食器代わりにする。
昨日は昼から大阪に出た。「詰小棋会」に出る。今回もみっちり堪能した。検討しながら解くのだが、Tさんは難解作ばかり?なので鍛えられる・・私は普段はやさしい詰将棋を作ってばかりなので、手を読む訓練になるのだ。
終わってから居酒屋に入る。金曜の夜なので混んでいた。詰将棋の話は楽しい。昔は詰将棋の集まりにもよく出ていたが、今は土日が将棋教室なので出られない。個性的で存在感のある詰将棋作家も多かった・・今はあまり知らない。
振りかえってもそのときそのときの縁は大切だなあと思う。貴重である。
少し遅くなってしまったが、電車で帰る。ほろ酔い気分だったが、帰宅してネット中継を見る。ちょうどB級1組順位戦の最終日でもあった。
これで今期の順位戦はすべて終わったが、三段リーグや奨励会、研修会の弟子の成績をみると山あり谷ありで、みんな踏ん張っているが全体ではもどかしいものがあった。師匠といってもなすすべもないのだが、勝ち負けは勝負の世界の常なのだ・・一喜一憂しながらも、大切なのは日々の精進というしかない。
ときどき現実の自分の立場にそっぽを向きたくなるが、どこを向いてもそんなに自分の思惑通りにはかどることなどないのである。人間でいうと負けを噛みしめながら歩いていくタイプと、自分が勝つことしか考えないタイプがある。今は後者が威張っている時代かもしれない。
抽象的な表現だが、たたずまいのいい人間になりたい‥つくづくそう思う。
ゴロンタ先生来訪 [日記]
「ちらかっているなあ・・」「あんたが散らかしているんだよ」
昨日は(3月15日木曜)午前中にレーザー治療に行った。木曜日は予約診察なのでリハビリも少ないのである。最近はレーザーのときに居眠りしてしまう。帰りに関〇スーパーに立ち寄って買い物をする。それから昼食はうどんにした。最近は饂飩屋さんとコンビニが乱立している?ようである。
帰宅してテキストを作っていると、電話が鳴って思わぬ来客となった?
ゴロンタ先生である。岡山から突然やって来られたのでビックリ仰天だった。
金太郎の反応を見ていると、私と似ている頭のせいか?怖がっていない。それどころかゴロンタ先生が持ってこられたピーナツを手からもらったのだ。「いやいや金太郎君はワイロに弱そうに思ったので・・」ピーナツに負けた金太郎だった・・
この日は木曜日でも「入門コース」のない週だったので、目的の教室見学はできなかったが、いろいろ参考になるお話ができてよかった。
またお越し下さい。
夜はネット将棋とテキスト作成と、次の仕事の準備にかかる。
息子が急に来れなくなって、妻とふたりでステーキの夕食だった。
いつのまにか3月も中旬で、寒いながらも春の足音がする・・
稽古日 太陽の塔 [日記]
昨日は(3月14日水曜)パ〇ソニックへ今年初めての稽古日だった。社名が変わる時期だったのであわただしかったせいのようだ。
金太郎はわりと臆病なので、新しいことにでくわすと初めは警戒する。新しい場所にもけっしてスンナリとは行かない。最近は大勢来るのでスズメさんに苦手意識があったようで、窓の外を見なくなっていた。鳴く真似をしても相手にされない?せいもあったようだ?
少し暖かくなっていたので窓を開けると、珍しくスズメさんに興味を示して鳴く真似をしていた。密閉の時は鳴声も通りにくかったので友達意識が薄かったのだろうか?少し反応があったのかもしれない。
迷った末に気温を見て、冬のコートに変更した。すっかり冬に逆戻りの温度だが、日が照っているといはまだましである。日差しを受けるとどんなときでも、ちょっとだけうれしい気分になる‥
一日々々が過ぎていくのが早く感じるが、電車を待つ間のつかのまの休憩タイムが不思議な間合いに感じる。
モノレールに乗って、でも今日は太陽の塔もみないようにしようか・,と思っていたが、横顔が見えてくると、やはり見たくなった。そして正面に来た時に撮る。
岡本太郎さんの描く、夢、希望は決して楽観的な意味だけではなくて、どんな状況でも夢や希望を失わないように‥そういうメッセージでもあるはずだが、それがより存在感を増す時代になっているのかもしれない。自分自身にもそういうものを強く感じる。
あきらめるのはいつでもできるから、最後まで全うした方がいい‥今まで弟子が将棋を止めたいといってくると、なにはどうあれ、たいていの場合そう言ってきた。それは自分自身にも言い聞かせてきた言葉でもある。ある面で無責任でもあり、説得力のない言葉だが、それが私にとっての太陽の塔みたいなものかなあとも思う・・
久しぶりの稽古でほのぼの気分である。やはり将棋を指すのはいい‥
終わってからみんなで駅の下の店に入る。今年の祝賀会の相談をする。世話人の中心としていつも協力してもらっているメンバーなのだ。私の思いは、今期もお祝い事はあったのだが、それよりも弟子全体で結果がでていないことへのつらい心情の方が強くて、そのことを話した。「何とか開きたかったのですけどねえ・・」そう言ってもらったのだが、結論としては、今年は見送りに決めた‥
昨年は東日本大震災で見送りだったので、2年連続祝賀会を開かないのは残念だが・・来季の弟子の活躍に心から期待したいと思う。
園田競馬、小学校の指導 [日記]
昨日は午前中、園田競馬に行った。それから学校に指導日でもあった。金太郎は私がカッターシャツを持ってきただけで「キンチャン、オルスバン」と何度も言う。最近はそのあとで抜け目なく「ピーナツ、ピーナツ、チョーダイ」と言うのを忘れないのだ。
今日を逃すと今週は園田競馬に行けないので、少しの時間だが通う‥前回から買い目と成績をノートに付けている。もともと私はルーズな面と几帳面な両方の顔がある?大きいことは大雑把で、細かいことは几帳面なようである。ざる計画に綿密行動?である。
やや重の馬場だったが、最近の園田競馬の馬券は難しく感じる。全くのはずれならあきらめもつくのだが、取れそうで取れない馬券なのである。
昔の将棋の真剣師も10局指せば10連勝はしない。6勝4敗なのである。それが長く続けるコツでもあるらしい。私の馬券は3勝7敗か4勝6敗みたいだ・・勝てそうなのでまた挑んでいくのだ。
競馬場にはメインが馬を見に行くようなものなので、パドックは好きだが、レースごとだとすぐにへばってしまう。特に寒い時は馬券を買うための動きも鈍い。
見るからに乱戦だ。激しい戦いは目を離せないが、まだときどきどの馬が前をいっているのかわからないこともある。最後の直線でようやく見える。
先日は川原騎手の4000勝のインタビュー記事が載っていたが、落馬した後での取材の写真撮影になり「勝たなきゃ笑えないかな。1回のレースごとに命をかけているからね」さりげない言葉も川原騎手だと重みが伝わってくる‥危険と隣り合わせの仕事だ。無事にレースを終えるとほっとする・・馬も騎手も。
小学校に指導に通うのも、3月後半のあと1回になった。昨日はがくどうの部屋のカーペットが新装になっていて、みんなうれしそうだった。八枚落ちと、ひとりだけ七枚落ちだったが、やはり時間があくと内容も悪くなってしまう‥でもなかなか上達しないが、こういう時間を積み重ねるのが大切だ。急に咲く花はすぐに散ってしまうし、時間をかけて咲かすのがいい‥わかっていても今の時代はすぐに結果を求められるので、子ども達にはきついかもしれない。
そして初心への指導の難しさもひしひしと感じる。自分には無理かなあ・・そういう気持ちの葛藤があって、自分の中でも多くは期待しないが、指導内容は出来うる限りきちんと向き合う、そういうスタンスであるが・・
弟子のこともそうだが、転んでは起き上がりまた転ぶ・・七転八起というよりも七転八倒の方が多いが・・常に直前に起き上がることがもっとも大切なのだ・・倒れると何も考えないで起き上がる・・無意識の動きである。そういう本能があるかないかが大きいかもしれない。
夕方は食事の後でレーザー治療に行く。いつも通っているとなんでもないが、通わなくなるとありがたさがしみる。
夜はDVD映画で「天上草原」というモンゴルの映画を見た。いい映画だった。美しいモンゴルの草原に自然界の掟、人間の掟、生きる厳しさと切なさが画面に漂ってくる。「四季モンゴル」の映画を思い出した。
最近は新聞を見ようと思って目を通すと、多数決絶対の民主主義?が横行していてゲンナリする。そして勝ち馬に乗れのいいとこ取りの風潮らしくて、社会全体で批判精神の居場所が狭くなって、知性?がレベルダウンしている気もする。(もちろんこういう場合は自分のことを棚に上げないといえないが・・) こういうときに大宅壮一ならどういうだろう?「一億総〇〇〇」
自分がめげてしまうことには関心を持たないようにするのがいいかもしれない‥人間軟弱、意志薄弱の姿勢である‥役に立たなくて消え入るようなれど、かすかな反骨の苔の一念・・は持っていよう。
3月11日、I知事が「祈るばかりじゃだめだ、行動しなくては」という発言をしていたが、藤原新也さんは「今日は一人で祈りをささげていよう」だった・・
相変わらず金太郎は荒い。
「つかしん」に行く [日記]
週明けの月曜日は私にとっては土日みたいなもので、気持ちも楽だ。しかし今週からは結構きついスケジュールのようで、何とか仕事があるのはありがたいことだ・・私の場合は仕事や趣味や遊びがごちゃごちゃになっている面もあって、自分のペースでやりくりしている。そのけじめが自分でも把握できていないかもしれない。
昔から(子どもの頃からかもしれない)もしも自分が飯を食えなくなったら・・それは常に意識していて、体を壊していない限り、仕事なら何でもする・・棋士になってからも(負けると特に)そう思っていた。現実になればそれは無理なこともあるが、そういう気持ちは持っていて、基本的には私はのんきだが楽観したことはない・・
逆に言うと何とか飯が食えればいいや・・みたいな危うさがあるので、反対に悲観的なものも常にしょっている面もある。私の家は子どもの頃はトマト一個を親子4人で分けてしのいだときもあったようで(私は幼かったので知らないが)貧乏とは幼馴染であり親友なのだが、そのわりに厳しさが染みついていないのが、私の性格のようである。
伊丹将棋センターの梶井さんと「ヤキタテイ」に行く。私は朝食は終わっていたが、またモーニングを注文する。朝はとってもお腹がすくのだ・・
妻も入ってセルフで撮った。
いったん家に戻って休んでから買い物に出かける。突如空が曇って雪が降り始めた。金太郎用の水(硬水)用に「コントレックス」にしている。私は村山聖の好きだった「〇〇〇天然水」であるから、金太郎の水の方が高いのだ・・
漠然と走っていると、なぜか「つかしん」に行く。ここは車の入り口がわからなくて何度か行けなかったのだ・案内版が見えなくて不親切だなあと言うと妻が「最近は文句が多いよ・・」確かにそうかもしれないなあ・・
一周回ってからようやく入り口がわかったので入ることにした。
この辺りは以前にも来たことがあるが、今は一つのシティーのようである。いわばなんでも揃っているようだ。便利この上ない。奥には温泉もあるようだ。でも私はそもそも人ごみが苦手なのである。
鳩が休憩しているシーンに出会って少しほっとした。「オハヨウ」いつも金太郎に話しかけるくせでそう挨拶した。
こういう最先端のショッピングモールの方が、現実は生存競争も激しいかもしれない。お客が入らないとたちまち閉店のような感じのイメージがする。ヒットした店には行列だ・・
当たり前と言えば当たり前だが、人がそれほど来なくても細々とやっている店はない?ような気がする。歩き回っているうちに何とか全貌がつかめ始めてきた・・昼食はカツ定食にした。それから競馬用に小さなバッグを買った。
不思議な天候の一日だった。
久しぶりにレーザー治療に行く。最近は気持ちがよくて居眠りしてしまいそうになる。
夕食もエエイと外食になった?餃子の王将に入る。
帰宅して金太郎の夜の部だ。よほどうれしかったのか、少々荒っぽかった。そしてたまに腕を噛みに来るのですかさず電気を消して、パソコンに座布団をかけて真っ暗にする。そうすると動けなくなるのである。
かと思うと金太郎が吐き戻しの仕草をする。腕の中で甘えた行動?を取るのだが、まとわりつく感じだ。
またそろそろ次の仕事に取り掛かる・・その前に金太郎の相手だ。
金太郎はリズムや音感のセンスが抜群らしい。私は論外だそうだが、確かに歌ったり歌を聞いているときの金太郎は、きちんとした姿勢で真剣な表情になる。
私が歌うときだと、たまにアクビしたり?妻の方に向きなおすこともある。そして金太郎は体が自然に反応するようで、羽を動かしてリズムを取る・・
京都王将戦 [日記]
昨日は(3月11日)京都王将戦で京都に行った。参加者は昨年と同じで心持ち少なかったが、大会は毎年経験しても独特の緊張感がある。
私は審判長で初めに挨拶をするのだが、昔はそれが憂鬱で、何を話すのか考えていると電車の中で気が重くなっていた‥今は神経が太くなったのか、直前に考えるくらい横着になっているのかもしれない。
この日は予選と決勝トーナメント2回戦を行う。いつもそうだが会場を回って興味深いのは「どんな戦法が多いのか」「どこで勝負の決着がつくのか」「今の形勢はどうか」などである。ときどき感想にも加わるが、レベルが高くなっていることを感じる。強い人が腕力で負かす、そういうことが少なくなって、戦法に長けて、切れ負けにも慣れていて、腕力も持ち合わせている・・そうでないと勝ち抜けないようだ。
いつも京都での大会のときは、兄弟子の中尾修七段や弟弟子の野間俊克五段と会うのも楽しみである。師匠の南口先生の面影を感じながら見て回る・・
京都新聞社のSさんの挨拶にもあったが、昨年の3月11日は東日本大震災の当日で、ここまで被害が大きかったのは、なんだか現実の出来事と思えなかった。
今も新聞やテレビ、ネットで語られているが、復興までの道乗りは難関が待ち受けている・・それでも将来に向き合っている人たちの姿は胸を打つ・・運命を呪いたくなるできごとだが、それでも大きな悲しみを抱いて生きていく・・ことに向き合うことなのだろう。言葉がない‥
阪神大震災以来、私自身は理屈でものごとを考えることが減ったと思う。理屈の前にひたむきに生きていくしかない‥そう感じた。生きていくというよりも、暮らしていくという感覚だろうか。時間を惜しむ気持ちと、縁を大切にということを以前よりも深く感じる。
なかなか思うようにままならないことに直面することばかりだが、常にその場で自分にできうる限りのことをこなすこと、自分の心の中の針がぶれないように心がけること、そして真摯に運命に向き合うことだろうか・・そういう気持ちを秘めて淡々と暮らしていきたいと思う。
大会が終わって打ち上げの麻雀も楽しみである。昨日は少し負けで終わったが、大きな手に放銃したのが、凡ミスで悔いを残す。まあええやろう・・でとんでもなく痛い目に合うのが麻雀である。
帰りの電車は混んでいて、十三駅までは座れなかった。宝塚線ではホームの前で立って待っていたので何とか座れてよかった。