昨日は(3月24日木曜)午前中、入門テキストを作成する。どうも体が重くて、コタツに横になると、居眠りしてしまう。というよりも体が起き上れない感じだ。

 昔から私は世の中で大きな災害や事件があると、体が反応して落ち込み気持ちが衰弱する傾向があった。

 それは弟子のことでも同じで、自分では影響されないようにと心がけているが、気持ちはスグに反応する。感情の昂ぶり線が激しいのだろうか。

 でも何故か作為的なにおいのする偽善的なお涙ものは受け付けなかった。子ども心に大人のウソを見抜く直感はあったと思う。というよりも人の数倍疑い深い性格だった。でもその逆に騙されようが欺かれようが、人は信じるという、間抜けさもある・・そういう自分に気づいてきたが、この年齢では治らないし、直そうとも思わない。

 自分を分析すると、疑い深くて慎重だが、まあいいかとだまされやすい性格でもある。相手への配慮は薄く、我を通そうとするが、通らなくてもまあいいかの面も多い。結局、自分のペースなのか、世の中にあるがままの言いなりなのかわからない?のである。でもそういう総合的な自分が、そろそろガタがきていることも否めない。ではどうしたらいいのか・・わからない。

 時代によって、自分がどう生きればいいのか迫られる転換期もある。そういう時代でそういう年齢なのかもしれない。

 ふと旅の仙人水津英夫さんや、村山聖に会いたくなる・・気持ちが弱くなっているのだろう。

 夕方からはピピアめふで「子ども入門コース」があった。今日は坪井1級と山口5級も手伝いだった。駒落ちの攻めがテーマの日だったが、駒落ち指導対局での予想局面を大盤で解説していたが、実戦になると忘れてしまうようだ?全体では棋力アップして成長しているが、そうするとますます課題が多くなる。

 昨日は実戦主体でやってみた。やはり「次にどう指していいのか?」考え方の根拠や目的があいまいなので、わからなくなってしまうのだろう。最近、入門に付いて考えるのは「体験の時間数の大切さ」だろうか。実戦の体験を積んでいくうちに、レベルによって差はあるが、掴んでいくものが必要なのだろう。

 要するにムダや徒労に近いものだが、遊びの要素を含んだ将棋を指す時間である。それが指導側では棋力の高いひとほど我慢できない要素もあって、教えるときに力んでしまうのだ。但し、それはなごやかな分野では身につかない気もする。ほどほどの緊張感と新鮮味がないと、経験しても生かせない。この辺が微妙なところだ。

 要領のよさやエキス吸収、情報の多さや劣等除去、マニュアル志向だと、何かが早く身につくが、何かの宝物が消えていくような気もする・・将棋に関して子どもにとって大事なものは、素朴な話だが、負ける体験と勝つ喜びだろうか。

 入門コースも数ヶ月経って、結果を見据えると、反省と課題克服のテーマがでてきた。慣れてきたこの辺からがヤマ場だと思っている。

 

 帰宅して、夕食を済ませて、金太郎を部屋に出す。金太郎の最近のおしゃべりはめまぐるしいものがあって、いよいよ本格化しているようだ。私と妻の会話を真似することもあって、よく見聞きしているものと感心、呆れる?のである。

 金太郎はこの不気味な人形も怖がらないで、腕を噛みにいく。人間も人形も同じなのである。

 明日が奨励会なので、山口5級が泊まりだった。金太郎は山口君の頭に乗ろうかどうか迷っていたみたいだ。