今日は午前中、のんびりして、午後から関西将棋会館に出かける。さっさと用事を済ませて、一階でばったり出会った伊藤(博)六段とN原さんとで喫茶店に行く。お互いに滅多に来ないので、奇遇である。

 この奥のほうに、レンガ色の関西将棋会館が写っている。

 昔の思い出話などで盛り上がる。N原さんは数年前まで将棋会館に勤めておられて、館内の雑用をてきぱきとこなしておられた。「糸谷君が棋士になったそうやねえ。まあびっくりしたわ。でもあの子は可愛かったねえ」近況などを聞いているとあっという間に時間が経つ。後で新聞社のHさんとMさんも入って来られた。

 喫茶店を出て、伊藤六段らと別れて、N原さんと梅田まで一緒に帰る。

 帰宅して妻の「にあんちゃん」の朗読を聞いて?太鼓亭に食事に出かける。「にあんちゃん」は、妻が注文した文庫本で、私も今すこしづつ読んでいる。昔読んだ記憶があるが、今読むと、また胸が詰まる思いだ。

 私の子どもの頃も、家は貧しかった。母ひとりで子ども3人を育てたのだが、トマト1個を分けあった食事のときもあったらしい。私は貧乏人の子なのに、卑屈なものがなくて(自分で言うとヘンだが)「まあこの子はおぼっちゃん顔やねえ」ようするに愛想の悪い、ひねた幼児だったのである。ただ、ときどき悔しさをこらえて、親が泣いていたのを見たりしていた。

 貧乏の辛さは、貧乏でないとわからないが、だからこそ、お金に振り回されない生き方をしたい、そう思うようになったのかもしれない。貧乏で泣く親の姿を見て育ったのは、大きかった。子ども心に世間や大人をじっとみていたように思う。そこで大金持ちになってやる、そうならないのが私の特徴みたいだ。

 にあんちゃんの世界は、私より少し前の時代だが、その心情は少しわかる。両親が亡くなり、兄弟4人がつらい暮らしを余儀なくさせられるなか、たくましく生き抜く日々の10歳の少女の日記が描かれている。

村山君の同級生がいた食堂、たまに一緒に入った。