今日は午前中、伊丹子ども日曜コースだった。いつも負けて泣き言が多い子が、勝ち出すとうれしくなる。ほとんどの子に指導対局をしているが、なかなか簡単に弱点が治ることはないようだ。いい面を引き出そうとするのと、単に間違いを指摘するのとは似ているようでも違うことを痛感するが、ではどれがいいかとなると難しい。強くなることと、勝つことは兄弟だが微妙に異なる。

 六枚落ちくらいの駒落ちのコツは①明快な攻めを覚える②終盤の寄せ、詰みなどを体験する③無理攻めをしないようにする④最小限度の受けを知る⑤手がないときは自陣の駒を使う、などだろうか。

 四枚落ちはほとんど二枚落ちに似てくる。四枚落ち独特の戦法か、二枚落ちでも使える戦法かの選択がある。結局、中終盤の腕力が必要だ。案外わかっていないのだが、序盤から攻め切って勝つことを意識しないことが大切で、定跡は必勝法でなくて、自然な戦略ということだろうか。

 攻め切って勝たないといけないプレッシャーが下手を弱くさせている面があるのだ。攻めや受けという分野でなくて、その局面で自然にどう指すかを心がけることだ。野球のように9回まで戦うつもりでちょうどよい。

 帰宅して、昼食を済ませてのんびり過ごす。今日は初めて、競馬場の場外でなくて、パソコンで馬券を買って、テレビのグリーンチャンネルで観戦した。途中で居眠りしたりしたが、寝転んで見られるのがいい・・土日に家で将棋関連イベントがないのは珍しくて、年に数日しかない。

 東京11Rのエプソンカップは妻も私も3連複で取ったのだが、配当が860円でがっくりである。

 途中で仕事を思い出し、原稿を書いて送る。

 ねじ指のせいもあるが、(きんばらさんの言う通りに妻にマッサージしてもらってかなり楽になった)自分の行動範囲を狭くしようとする意思が働き始めているようだ。将棋で言うと、自分で戦って来て苦戦しているのだから?人生の終盤も自分で決着をつけないとしょうがないのだろう・・

 何が疲れると言って、たいていは人間関係だろうか。私は無頓着な方なのだが、ときどきうんざりコン?(意味のない表現、擬声音)である。だれがどうということでなくて、今の時代は善人に近いほど(私は善人ではない)神経をすり減らす要素があるようにも思える。元気イコール無神経とは言わないが、真面目イコール、神経疲労、ボロボロなのかもしれない。そして自分の中の無神経が活躍して、元気さを引き出すのだが、しかしまたもや真面目さが出だすと、またショゲルのである。

 

 夕方はうどんかラーメンかで迷ったが、ラーメンにした。

 昼寝をして元気な胃袋になったせいか、元気なラーメンを食べる。ギョーザとシューマイもプラスである。さすがに脂っこいのでスープは飲めなかった。

 HIROに寄ってから帰宅した。

 夜は必至問題を作りながら、コンピューター将棋選手権の特集を見た。どんな将棋なのか注目したが、なかなか華々しく力強いものがあった。学習機能があるのも凄いが、ソフト開発者がみんな楽しそうなのがいい。

 私の頭に常にあるのは、棋力レベルに幅があるが、子ども達の将棋上達法の謎である。考える方向、向かうところは真剣なのだが、発想に武器がない感じだ。素手で戦っているようで、原始的な発想しかないのが冴えない・・原始的とは、効率が悪くて、ださくて受けなくて、まどろっこしくて、なかなか身につかない・・そんな手探りからしか生まれないような気がしている・・

 何を根底に見ながら生きていくのか、今の時代は選択肢が多くて、大変である。単純なら、損得かそうでないか、それが判断基準なのだろう。そしてもうひとつは、難しく考えるか、難しく考えないか、の分かれ道のように思う。