掃除機を噛む金太郎、このままだと噛み切って壊してしまう。

 朝、伊丹将棋センターの梶井さんご夫妻と一緒に、西宮北口のHiroに行く。妻も一緒で4人で行くのは初めてだった。

 年末年始の休みに入ったせいか、朝から満員でしばらく待つことになった。

 日替わりコーヒーとモーニングセットを注文した。最近はHiroに行っていないので、久しぶりだった。以前通ったHiroは駐車場が減ってしまって不自由になったのと、生活のサイクルの変化でご無沙汰している。

 昼から宝塚に出て買い物をする。正月のものが勢ぞろいしていた‥

 帰宅して大雑把に掃除をする。それぞれの場所に何とか空間を作る?外に出かける都度に、テレビをつけっぱなしで(さみしがりなので)出る。「キンチャン、オルスバン」は変わらないのだが、最近は「ピーナツ、ピーナツ、チョーダイ」と抜け目がない。

 食べている間は後追いの鳴きがない。でも「スピャン」と悲しい声で中から聞こえてくる。

 遊びのオンパレードだ。

 こういう隙間からうまく這い出てくる。

 Youtubeの金太郎の動画を見る、金太郎‥わかってはいないよいだが、声が出ると不思議そうだった‥

 夜も買い残しのものを買いに行く。金太郎がさみしがる。

 今年もあと一日になった‥

 振りかえってみると、今年はつらすぎて声もでなくなる災害が多くて、解決どころか果てしない混迷が実感だろうか‥。

 景気は回復しそうにないし、個々に生々しい大きな壁が立ちはだかっている気がする。希望や夢をえがくのはいいが、こうなればバラ色みたいな虚言に左右されないようにしたいものだ‥やはり自分の足元をしっかりみつめて、目の前のことをきちんとこなすしかない‥

 

 政治の世界は不信感がいっぱいだが、はらわたが煮えくり返っても、結果的に選択しているのは自分達でもある‥全体のことを考える、自分のことを考える、どちらに重点をおくかによって、ものごとの見方は変わる‥原発のことを見ていても、批判や責任の追及と同時に、大切なのは「これからどうするか」だろうか‥今の時代に求められてるのは、声の大きさでなくて、非力であっても確実な指針だろうか。この辺は声を小さく‥つぶやく。

 見えざる悪は決して悪の表情でなくて?(生善説も正悪説もどちらも正しい気がする‥)要するに世の中は大なり小なり自分でわかっていない「悪」が存在するように思う?

 私は大上段に構えられた正論や意見は苦手である‥太刀打ちできないからもあるが、自分も卑怯者や悪人になりうるものを感じているせいもある。そうならないようにどこで踏みとどまるか‥なのだ。今はわかりやすいものがよい、煮え切らないものは人気がない‥風潮だが、曖昧模糊、フニャフニャ、どさくさまぎれが好きな私は次第に肩身が狭い思い‥も感じている。

 来年はますます肩身の狭さと付き合うようになりそうだが、景気のいい話はないが、心の奥では「1寸の虫にも五分の魂」の気持ちを持ってのぞみたいものだ‥「万事無用」の精神もいい。(こんな言葉はありません)