今日は何曜日だろう?そんな気分になるような日々である。連休に入ると、5月3日の祝賀会が近づいてきて、さすがに重い腰を上げざるを得ない。今日も準備で、事務用品を揃えることと、参加者名簿の作成をした。こういったイベントの会では、意外に面倒なのが、チマチマしたものを揃えることなのだ。

 将棋の仕事は、たいてい、そういった下準備が出来ているところに登場、そんな仕事振りなので、意外に裏方の作業を軽視する傾向がある。私は裏方の仕事が本職みたいなものなので、ズレが生じるかもしれない。弟子には裏方を経験させるのだが、たいてい役に立たない。邪魔になることすらある。たまに弟子がわかっているような表情をすると、怒鳴りつけたくなることもある。

 そういう体験をしないで、大人になってしまうと、いつもわかったようなしたり顔になってしまうのだ。そうなるともう遅い。大人になってしまうと、価値観というものが覆ることは、まずないものなのだろう。

 昨日、愛媛新聞の人から電話があって、5月4日の記事の件で、先日の講演の内容の確認の電話があった。案の定、「森先生のお話は、聞いていると理解できるのですが、文章になると哲学的で?意味がわかりにくいのです・・」相当、遠慮されての言葉なのがわかった。私の場合は、言っていることが矛盾の上に、つじつまがあわないことがしょっちゅうなのだ。

 自分で言うしかないが、私はボディーランゲジなのである。いわゆる動物的なのだ。人間の話す言葉はあまり好きでないのである。(人間が好きでないのかもしれない)

 言葉でいろんな表現をするのは得意でない。でも表現を言葉でするのは好きである。もうすでにおかしな文章だ。矛盾を抱えているのが人間と思っているので、理屈や正論は苦手である。言葉にやさしさのない表現が嫌いなのである。

 以前、将棋の好きなNさんという日本語の学者さんがいて、こういうときによく質問をして、説明をしてもらった。日本語は難しいのである・・その人の言葉で話すことが、その人の人間ではないのだ。単純に言うと、自分の考えていることを話したつもりでも、そうではないことが意外に多いということだ。そして相手に伝わらないことの方が、はるかに多いように思う。

 だから私のように、ヘタクソな言葉を使う人間は、確実に伝わる言葉を使う訓練が必要な気がするのだ・・ごく初歩の確かなものが大事・・これは将棋と同じなのかもしれないなあ。

 空しいときほど声が大きくなる。悲しいときほど、声が重くなる。うれしいときほど声が高くなる。さみしいときほど声が細くなる・・

 注=私が普通に話すと、今日みたいなことになってしまうので、いつもはもっときちんと話しています。