オッズパーク、家で過ごす [日記]
昨日は(5月17日火曜日)園田競馬に行く日だが、妻が歯の痛みで安静にしないといけないので中止にする。それで銀行に行って振込み「オッズパーク」で園田競馬の馬券を買うことにした。オッズパークは相性がいいらしくて収支はプラスである。ただ困るのは間があいたり、わからないうちに勝手に精算されてしまうことだ?何度も銀行に通うのが面倒でほおって置くことになるのだ・・
昨日は収支がトントンだった。
詰め将棋を作りながら、ネットで馬券を買った。不謹慎だが私はながら一族である。このほうが効率がよい。最近はあるテーマで詰め将棋の創作を始めた。仕事でなくて、自分のノルマにした。こんな風に目に見えないことで、仕事でもない作業が、私は多いようだ・・尻に火がついてあわてるのも昔からである・・治っていない。ウサギとカメで、私はカメに見えるが?全くのウサギタイプである。汚い格好で非力ながらやや横着なウサギである。
環境は行動を左右する・・今はいろんな面でめまぐるしく環境が変化している時代に突入した気がするが、こういうときはしらない間に何かの価値感もずれていっている。やさしさや思いやりの針が傾いてきて、身勝手や自分中心の針がのしあがってきている・・そうしないと暮らしていけない、生きていけない・・そういう不安のなかの選択で微妙に傾いてきているものがあるのかもしれない。
ささやかにつつましく生きている人も多いはずだが、声の小さい人や謙虚な人にかぎってお人よしなのかもしれない。善人は我慢を強いられる・・そんな時代だろうか。(私は善人になりたいが、不謹慎なので無理である)その逆に、横柄で傲慢、無神経な人ほど声が大きく、自分に負けのない設定ボタンを押しているので手に負えないのだ・・
そういう人が世の中をよくするはずがない・・なのにそこそこの人気はある。それはたいていは今のどうしようもない閉塞感を打開してくれるかもしれないという理由だ。閉塞感のある時代は稚拙ながらも明快さがあるほうが、良く見えるものである。そして長い目で見てますます地盤沈下が進む(ように思う)
優位とか多数の論理が、普通であることや平凡の大切さを木っ端微塵に砕いているのかもしれない。それに抗う勢力が弱いのだろう。勢力が弱いというよりも、勢力を持たない立場の人が迷ってしまうしかないのだろう・・白黒をはっきりさせることの危険さを少しでも感じる体感が大人には必要な気がする。
情報化時代ゆえに、情報で何を感じるか、どう思うか、その選択や判断が難しくなっている。情報はあくまで材料だから、その選択や判断をする思考力や基盤になる人間性が問われるようになっていると思う・・情報が多くなるほどそうである。しかし今はそれを左右しているのが、組織の利益が優先かもしれない・・
流されまいとするとむしろ流されていて、流れに乗ったほうが流されていない?こともあるのだろうか・・
夕方も家にいた。
妻に頼まれて、紙芝居を借りてくる。そして読まされた?「なきむしダイコン」という童話だった。
今度は金太郎と遊ぶ。今日はテンションがあがってハイ状態だった。こういうときは体にくっついてきて、悪さをする。
「イイネエ・・ポンポンポン、ハナビガポ^ン、テッテイテキニ、テ、ア、シ」ご機嫌である。「イタイ、イタイ、イタイヨウ」妻の虫歯の様子もよく見ている。
最近は金太郎に噛まれても平気になって、どんどんはまっている?ので、金太郎も目の前まで寄って来る。
「ポン」と妻に歌を催促するのだが、代わりに私が歌うと不満らしくいやそうな表情になる。そして妻の方に向かって「ポン」とひと言。
昨日は22時になると眠くなってしまう。どうも金太郎の生活サイクルと似てきているようだ?